Uchida Zenichiro

 


鹿児島県いちき串木野市出身で米国カリフォルニア州で「戦後移民の父」
と尊敬される内田善一郎(うちだぜんいちろう)

 

戦後移民の父 内田善一郎(1921年-2006年):いちき串木野市出身

難民救済法
事の起こりは、戦後のサンフランシスコ講和条約の締結だった。条約の内容には、日本から先進国アメリカに研修生を送る条項が含まれていた。日本の各県より1名ずつ農業従事者が派遣された。その派米農業実習生として鹿児島県を代表して渡米したのが、串木野の市会議員、内田善一郎だった。内田は豊かな農業州であるカリフォルニアの風景に、深い感銘を受けた。
自分が得た知識を日本で披露するだけではもったいないと考え、若者は狭い国土にひしめいて暮らすより、広大なアメリカに可能性を見出すべきとして地元で移民運動を始めた。
1ドルが360円の時代、農村の若者たちは、善一郎の夢のような儲け話しを真剣に聞いた。善一郎は派米農業実習生として農業のほかにも自由平等主義や開拓精神を学んでいた。その善一郎の夢は貧困にあえぐ地元の男たちをどうにかして渡米させることだったが、日本人による移民は1924年に施行された「排日移民法」の壁に阻まれていた。
そこで、思いついたのが当時、ソ連や東ドイツなど共産政府から迫害をうけた政治難民を対象とした「難民救済法」の適用だ。日米政府にアジア諸国にも適用させるようにかけあった。しかし、鹿児島の農村は法律の適用には及ばないという調査官の判断で保留となってしまう、しかも当時はまだ戦後間もない時代、反米派が善一郎の運動を批判し、貧しい農民を奴隷としてアメリカへ売り渡そうとしていると噂するものや、善一郎の実家へ運動をやめさせるよう脅迫に訪れる者も現れた。

 

時限立法
一方、希望者が増えていく中で悩む善一郎だったが、そこに思わぬ協力者が現れた。日系市民協会の日系2世ロビイスト、マイク・正岡だった。マイク正岡は当時の日系社会の指導者的存在で、戦争によって差別をうけた日系人たちの人権の回復のために尽力していた。マイク正岡は善一郎の移民運動の話しを知り、少しでも苦しむ同じ日本人を救おうと米国議会にかけあった。その介があって事態は好転、難民救済法の適用の道が開けた。
法律は時限法であり、結局、1955年と56年の2年間で計333名が渡米した、羽田空港から飛行機にのり、ハワイを経由しサンフランシスコへ到着、当時飛行機による難民の移動は珍しい、新聞は彼らを「空飛ぶ難民」と書き立てた。

 

厳しい米国での生活
串木野市冠岳出身の松野義人は渡米後に、カリフォルニア州メリスヴィルの労働キャンプでフルーツの収穫作業に従事した。到着した先の宿舎は粗末な作りで驚いたという。

夏は40度を越す炎天下でブドウの収穫作業を続け、日本の家族に仕送りをした。各地のキャンプを出た難民達は皆同じような経験をしてキャンプでの契約を終えた。 その後、善一郎はノーベル賞作家スタインベックの故郷としても知られるカリフォルニア州サリナスに、「花の一大産地を作ること」を目標に、花の栽培事業をはじめた。サリナスには戦前から日系人達が入植していたが、第二次大戦中、フィリピン、バターン島攻略作戦で地元出身者の多く戦死していたことから、排日感情が根強く残っていた。これを見た善一郎は、当地の日系2世、柴田家がカーネーション栽培で成功していたことを知り、彼らと協力してこの地に「平和の花を咲かせよう」と思い立った...

 

続きは、米国南カリフォルニア鹿児島県人会が主宰する、日本ファンデーション制作の難民移民ドキュメンタリー「夢は咲く -Dream Blossoms-」をご覧ください。

ドキュメンタリー映像の背景はここをクリック。