H UMAN  H ISTORY
時代の源流を探る
Look at our heritages from a global perspective


かごしまのパイオニア達

鹿児島には明治維新の偉業を成し遂げた偉人の方々の他にも、鹿児島の風土に育まれたチャレンジ精神を実現しようと努力された幾多のパイオニアがいます。 このページでは歴史の間に埋もれつつあるこれらの方々をご紹介し、次の世代に継承していく「レガシー」とは何か考える契機としていただければと思います。もし皆さまの周辺にそのような方がいらっしゃいましたら、ぜひここまでご連絡ください。

 

1960年代後半から鹿児島から移住して来た一世の人達が仕事として選んだのは 花の栽培でした。
一番のピーク時は70~80家族が この花の栽培に 携わっていました。 こうして始めたビジネスは皆が成功を収めはしましたが、しかし、それは長くは続きませんでした。 花のビジネスをやめていく ひとつの要因として アメリカの政治上、ブッシュ政権下 南米からアメリカに麻薬が入ってくるのを阻止するため、南米に花作りを奨励しました。
その後南米から輸入される花は カリフォルニアで作られる花よりも十分の1程度の安さで 花のビジネスも段々と下り坂となっていったのです。
もう一つの要因として 子供たちには立派なアメリカ人として教育を重視するようになりました。 今 その子供達は 其々日系アメリカ人として 色々な分野で活躍しています。 一世の親達は皆年を取り その半数以上は他界している様な現状です。 そういう事もあり我々県人会も 残念乍ら毎年先細りとなっています。


この写真は 一世の県人会の皆さんを囲んだ会合のものです。

内田善一郎(うちだぜんいちろう)は、鹿児島県いちき串木野市出身で米国カリフォルニア州で「戦後移民の父」といわれる。

難民救済法
事の起こりは、戦後のサンフランシスコ講和条約の締結だった。条約の内容には、日本から先進国アメリカに研修生を送る条項が含まれていた。日本の各県より1名ずつ農業従事者が派遣された。その派米農業実習生として鹿児島県を代表して渡米したのが、串木野の市会議員、内田善一郎だった。内田は豊かな農業州であるカリフォルニアの風景に、深い感銘を受けた。
自分が得た知識を日本で披露するだけではもったいないと考え、若者は狭い国土にひしめいて暮らすより、広大なアメリカに可能性を見出すべきとして地元で移民運動を始めた。
1ドルが360円の時代、農村の若者たちは、善一郎の夢のような儲け話しを真剣に聞いた。善一郎は派米農業実習生として農業のほかにも自由平等主義や開拓精神を学んでいた。その善一郎の夢は貧困にあえぐ地元の男たちをどうにかして渡米させることだったが、日本人による移民は1924年に施行された「排日移民法」の壁に阻まれていた。
そこで、思いついたのが当時、ソ連や東ドイツなど共産政府から迫害をうけた政治難民を対象とした「難民救済法」の適用だ。日米政府にアジア諸国にも適用させるようにかけあった。
しかし、鹿児島の農村は法律の適用には及ばないという調査官の判断で保留となってしまう、しかも当時はまだ戦後間もない時代、反米派が善一郎の運動を批判し、貧しい農民を奴隷としてアメリカへ売り渡そうとしていると噂するものや、善一郎の実家へ運動をやめさせるよう脅迫に訪れる者も現れた。

時限立法
一方、希望者が増えていく中で悩む善一郎だったが、そこに思わぬ協力者が現れた。日系市民協会の日系2世ロビイスト、マイク・正岡だった。マイク正岡は当時の日系社会の指導者的存在で、戦争によって差別をうけた日系人たちの人権の回復のために尽力していた。マイク正岡は善一郎の移民運動の話しを知り、少しでも苦しむ同じ日本人を救おうと米国議会にかけあった。その介があって事態は好転、難民救済法の適用の道が開けた。
法律は時限法であり、結局、1955年と56年の2年間で計333名が渡米した、羽田空港から飛行機にのり、ハワイを経由しサンフランシスコへ到着、当時飛行機による難民の移動は珍しい、新聞は彼らを「空飛ぶ難民」と書き立てた。

厳しい米国での生活
串木野市冠岳出身の松野義人は渡米後に、カリフォルニア州メリスヴィルの労働キャンプでフルーツの収穫作業に従事した。到着した先の宿舎は粗末な作りで驚いたという。 夏は40度を越す炎天下でブドウの収穫作業を続け、日本の家族に仕送りをした。各地のキャンプを出た難民達は皆同じような経験をしてキャンプでの契約を終えた。
その後、善一郎はノーベル賞作家スタインベックの故郷としても知られるカリフォルニア州サリナスに、「花の一大産地を作ること」を目標に、花の栽培事業をはじめた。
サリナスには戦前から日系人達が入植していたが、第二次大戦中、フィリピン、バターン島攻略作戦で地元出身者の多く戦死していたことから、排日感情が根強く残っていた。これを見た善一郎は、当地の日系2世、柴田家がカーネーション栽培で成功していたことを知り、彼らと協力してこの地に「平和の花を咲かせよう」と思い立った...

続きは、米国南カリフォルニア鹿児島県人会が主宰する、日本ファンデーション制作の難民移民ドキュメンタリー「夢は咲く -Dream Blossoms-」をご覧ください。

ドキュメンタリー映像の背景はここをクリック。

戦前ドイツにおいてインドネシアを拠点に東アジアとの貿易会社を経営し、政治家・実業家に、経済界要人の一人であったエミール・ヘルフェリッヒ(Emil Helfferich)氏(1878-1924)がいた。
彼はドイツ帝国副首相(1916-1917)Karl Helfferich)の弟でもあり、東アジアでの事業活動を通じて日本文化に深い造形を持ち、収集家でもあった。

ノイシュタットにある彼のお墓の写真をいただいている(右写真)が、他のドイツのお墓とは全く異なり、日本の仏塔を髣髴させる。

 南西ドイツ在住の日独交流史の研究家 堀氏は彼の日本贔屓の理由についてその生涯と遺品から研究していくうちに有村貫一(ありむらかんいち)氏の存在を知ったという。



日独交流史研究家 堀氏から

「エミールを日本文化に魅入らせた日本人の一人が鹿児島県出身の有村貫一氏ということがわかりました。 エミールが蘭印に駐在していた際、同じく蘭印に南國産業株式會社から派遣されていた有村貫一氏と出会い、有村氏を評して、以下のように述べています。

「教養があり、意志が強く、勤勉で頼もしい存在だった。日本人のなかで一番親しくなり、日本人の礼儀や性質は彼から学ぶことになった。」
「哲学的にも素晴らしい感性の持ち主で、特に彼が日本文化や日本の礼儀について話す時は大変興味を惹かれた。私たちはこれらについて何度も会話を重ねていき、それによって、私は徐々に、後に私の最も美しい体験の一つとなる、日出づる国に入り込んでいったのだった。」

つまり、エミールの日本観は、このような有村氏による影響がかなり大きいと思われます。
この、有村という人物について調べていくうちに、鹿児島県出身者であることがわかりました。 そして有村氏の鹿児島での生い立ちについて興味を持っています。」
しかし、有村氏の鹿児島での生い立ちについての詳細はまだ不明で、皆様からの情報提供を引き続き募集しています。

現在までわかっている有村貫一(ありむら かんいち)氏について
  • 鹿児島県西櫻島出身
  • 明治42年 鹿児島県立鹿児島第一中学校(旧制)卒業
  • 大正5年、東京帝国大学農学部卒業
  • その後、20年に亘ってジャワに駐在(南國産業株式會社の駐在員)
  • 妻、長女、長男がいる(エミール著書に有村の家族写真がある)
  • 昭和11年に帰国、その後は本社勤務
    1951年、および1954年に『月刊インドネシア』に寄稿している。肩書は、「南國産業株式會社取締役/社長」 東京帝国大学卒業者名簿(大正5年)に有村貫一氏の名前があり、鹿児島県出身であることが記載されている。 また、鹿児島県立鹿児島第一中学校(旧制)同窓会名簿(昭和16(1931)年度)によると東京在住となっている。

ペルー鹿児島県人会は2016年には創立100周年をふるさと鹿児島県や海外移住家族会からのご臨席をいただき、1986年の80周年、1996年の90周年に引き続き盛大にお祝いすることができました。
この度、鹿児島県人世界大会へお招きに預かり、世界にいらっしゃる鹿児島ゆかりの方々とお会いできることを楽しみにしております。 この機会にペルー鹿児島県人会について簡単にご紹介いたします。

ペルー鹿児島県人会の沿革

  • 1908−1923年:鹿児島県から労働者として747名がペルー渡航
  • 1916年2月7日:鹿児島県人会創設
  • 1924-1939年:家族呼び寄せや渡航募集に鹿児島から1550名来ペルー
  • 1940-50年代:太平洋戦争の影響で県人会活動記録消失
  • 1952年  :市来金太郎氏が鹿児島県人会活動再興
  • 1968年  :金丸三郎鹿児島県知事(当時)が、県知事として初めてペルー訪問
  • 1979年  :鹿児島県がペルー在住県出身者へ奨学金制度を開設
  • 1986年  :県人会創設80周年記念式典開催
  • 1994年  :ゲートボール世界大会(於鹿児島)へ参加
  • 1996年  :創設90周年記念式典開催
  • 2016年  :創設100周年記念式典開催
  • 2017年  :ブラジル鹿児島県人会と交流開始

Establishment in Perú

In Peru between the years 1908 and 1923, 747 people from Kagoshima arrived with an employment contract. The contracts were for 4 years, mostly to work in the farmlands. At the end of the contract, they went to the city to settle down and start a business. Later between the years 1924 and 1939, 1550 arrived by call or yobiyose.
The Peru Association Kagoshima Kenjinkai was founded on February 7, 1916, its first President has been Mr. Yanosuke Suenaga.
The Kenjinkai also had Messrs. Minosuke Yoshimoto and Kintaro Ichiki as great Kagoshima leaders. About the early years of Kenjinkai, much of the information was deliberately erased between the 1940s and 1950s, due to political and racial persecution of the Japanese in Peru by the Second World War. Many Japanese families were affected by the looting of their businesses, starting over or returning to Japan.


(  Left: 1949   /   Right 1957-58  )

In 1952, Mr. Kintaro Ichiki restarted the activities of the Kenjinkai. The first years of reopening were difficult because of the country's economic and social situation.
Among the various trades learned by immigrants from Kagoshima, the most outstanding was the Bakery, where the following families stood out: Nagatome, Maeda, Hiramine, Uyehara, Shironoshita, Fukumoto, Ishida, Kitazono, Matsuda, Ueno, Nishimata and Wakabayashi. They also dedicated to: watchmaking, carpentry, hairdressing, milk stables, farms, restaurants, etc.
Mr. Masao Kozono, worked hard to start relations with Kagoshima Prefecture. In 1968, the Governor of Kagoshima, Mr. Saburo Kanemaru, visited us for the first time.
In 1979, the Prefecture of Kagoshima granted for the first time a scholarship to Peru for descendants. Now, we have 28 young people benefited with the Ryugaku scholarship and 9 with the Kenshu scholarship. (Left: 1996 / Right: 100years Anniversary)

現在ペルー鹿児島県人会は毎年恒例で新年会、父母謝恩会、忘年会を開催し、約130家族が参加しています。このほかにも日本人会や婦人会およびほかの県人会と一緒に運動会やソフトバール大会、メキシコ料理会、歌謡コンテスト、グルメ祭りなど様々な催しに参加しています。


( Left:新年会2018    /   Right:父母謝恩会2017  )


( Left:フェスティバル2017   /  Right:運動会2018  )


( Left:1986   /  Right:県人会スタッフ2018  )

1869年初の日本人上陸

『ブラジル鹿児島県人会創立百周年記念誌』(2013年)によると、1869(明治2)年薩摩藩士の前田十郎左衛門が英国海軍兵学校留学のため、当時日本に廻航中の英艦リバプール号に乗組み英国に向かう途中、ブラジル北東部のバイア港に上陸した。これが我が鹿児島とブラジルの最初の絆である。
 1877(明治10)年、後の総理大臣山本権兵衛は艦務研究のためドイツ艦べネタ号に乗組み、渡独の途次サントス港に上陸し、鹿児島県人として二人目の訪伯者となった。
1906(明治39)年鹿児島市裁判所判事を退職して弁護士を開業していた隈部三郎は、ブラジルに邦人の新天地を創設するために、安田良一、九玉友造、長瀬、鳥居、有川新吉、松下正彦、西沢為蔵と共に渡伯してサント・アントニオ耕地に入植し、日本移民のパイオニアとなった。


ブラジル県人会館

ブラジル鹿児島県人会は1913年8月創立、2016年12月には現在地、サンパウロ市ヴィラ・グアラニ区ジュルペバ街199番地に移転。
 新会館は地下鉄ジャバクアラ駅から近く、宿泊設備があります。
学生が寄宿したり、日本からの旅行者が泊まることが可能です。
写真はブラジル鹿児島県人会の会館の開会式(鎌田元鹿児島県知事と当時の池上会長) (1980年10月19日)



ブラジル県人会の活動

月一度の役員会のほかにも新年会、敬老会、忘年会等に会員が集まります。
毎年7月にサンパウロ市内で開催されるジャパン。フェスティバルには婦人部と青年部が協力し、さつま揚げ、かるかん饅頭等を生産販売しています。
写真は、元会長の懇親会 (天達、池上、徳留、田畑、モニカ)(2001年05月30日)

2018年7月22日には県人会創立105周年記念式典をサンパウロ・エキスポ・センターで開催。 パラグアイ鹿児島県人会、ペルー鹿児島県人会、サンパウロ州内外他鹿児島県からも、約320名の参加者出席し、盛大に祝うことができた。

先日、当会館で行われた九州ブロック懇親会(沖縄県を含む)には婦人部手作りの鶏飯、かるかん饅頭、ふくれ菓子などがふるまわれ、他県人会からの出席者に公表を得ることができた。 他にも婦人部の慰安旅行、九州ブロックで行われる運動会、演芸祭、文化大会などがあり、会員同士の親睦に努めている。


南加最古の県人会・南加鹿児島県人会沿革:顧問・西タック武弘

我が胸の燃ゆる思いにくらぶれば煙はうすし桜島山」と幕末の志士、平野国臣が詠んだ桜島は鹿児島の象徴でもあります。
燃える郷土愛がこの南加最古の県人会の創立の起因でもあるのでしょうか、南加(南カリフオールニア)の40以上の県人会の中で最も古い歴史を誇り創立119周年を迎えているのが南加鹿児島県人会です。
この旗は制作年未詳ですが文字が右横書きで記載されていることから大先輩方が戦前に制作されたと推測され、当会の長い歴史が偲ばれるものの一つです。

長沢 鼎 翁 -KANAE NAGASAWA-

幕末の薩摩藩留学生として欧州よりニューヨークで学び北加のサンタロサに移住して2000エイカーのブドウ園を経営し、ブドウ王として知られた長沢鼎が鹿児島県人のカリフォルニア移住者の第一号といわれております。
南加鹿児島県人会は1895年に北加鹿児島県人会の南加支部として発足し独立した活動を開始した1899年が創立の起源です。
1903年にはロサンゼルス市の6街に県人会事務所を開設し以後、東4街136番地、東1街、有村旅館内に移転して居ります。
1910年には県人会とは別に鹿児島婦人会が発会し「鹿児島婦人の友」らも発行し、県人会は1914年には鹿児島県人誌「隼人」13号を発刊し以来16号まで発行しました。
100年前のその当時は、県人会恒例の親睦ピクニックには大型自動車(バス)が出る程盛会で、現在の鹿児島県人会のピクニックも手作りのステージらで特殊性をアピールしています。
しかし、1942年に第二次大戦の為に自発的に解散し、預金は国防費に献納しました。 戦後は1947年鹿児島クラブとして再発足し1950年南加鹿児島県人会と改称して現在に至ります。
1957年鹿児島婦人会は鹿児島県人会と合併しました。1959年鹿児島県より1,100が難民移民家族呼び寄せで渡米しました。


戦後の交流

1966年より16年間、南日本放送の高校生米国視察団の歓迎会を県人会が開催しております。
1972年に渉外部、文化部、余興演劇部、運動部(野球部、ゴルフ部)を新設し、1974年第1回ゴルフトーナメント大会を開催志、ヒルトンホテルで創立75周年記念祝賀会(鹿児島より120名参加)柔道、剣道、ゴルフ、野球大会に加えて追悼法要、前夜祭を開催し「南加鹿児島県人誌」(422頁)を発刊しました。
さらに、1976年、第1回バレーボール大会をウエストウッドで開催1983年鹿児島青壮年部、鹿児島ジュニアクラブが発足した。1999年、ジュニアクラブはヘリテージクラブと改称して現在に至る。
1999年鹿児島県人会創立100周年記念祝賀会をトーレンス市のマリエットホテルで開催(750名参加)創立100周年記念誌(360頁)を発刊し、2003年ヘリテージクラブ会員を中心にした母国訪問団一行が鹿児島との絆を確認すべく「里帰り」訪鹿し県庁で須賀県知事(当時)を表敬訪問いたしました。

2006年・鹿児島県人先亡者慰霊碑をエバグリーン墓地に建立しました。2009年、県人会創立110周年、婦人会創立100周年記念祝賀会(クワエットキャノン)で開催し記念誌(152頁)を発刊しました。
2014年は創立115周年記念祝賀会をトーレンス市のハラデーインで開催し第41回バレーボール大会、ゴルフ部は創立42周年記念の第119回ゴルフ大会の開催し、かるかんコーラスは23年連続での県人会協議会親睦演芸会に出演協力、敬老慰問を続けています。

知覧上郡(かみごおり)集落から:
的場八束(まとばやつか)

南薩地域から米国への渡航者の先駆けは、西南戦争後の明治10年(1877年)に渡米した知覧上郡(かみごおり)集落の的場八束(まとばやつか)という説がある(渡航年については異論あり)。 彼はサンフランシスコでカツオ漁船を保有して財を成したというがその後の消息はつかめていない。
「南加鹿児島県人誌」によると当時のサンフランシスコ周辺には約1,000人の日本人がいたという。1890年代に入るとサンフランシスコを中心とした鹿児島県出身者による北加鹿児島県人会が組織され、1895年にはロサンゼルスに北加鹿児島県人会南加支部が発足するなど、鹿児島県出身者は増加している。

揖宿郡頴娃、摺木集落から摺木(するき)寅吉と前村松之助
揖宿郡頴娃においては、明治27年(1894年)に渡航した摺木(するき)集落の摺木寅吉と前村松之助が最初の渡航者といわれる。彼らは石工として働いていた知覧門之浦の医院の佐多征二医師からメキシコ移住を薦められ、メキシコにわたりそこから砂漠を越えてアメリカへ密入国している。その目的は、生産性が低い畑、台風常襲地帯である頴娃での生活を立て直すための「出稼ぎ」であったという。
揖宿郡頴娃においては、明治27年(1894年)に渡航した摺木(するき)集落の摺木寅吉と前村松之助が最初の渡航者といわれる。彼らは石工として働いていた知覧門之浦の医院の佐多征二医師からメキシコ移住を薦められ、メキシコにわたりそこから砂漠を越えてアメリカへ密入国している。その目的は、生産性が低い畑、台風常襲地帯である頴娃での生活を立て直すための「出稼ぎ」であったという。

渡航の報酬
大正2年(1913年)の在米鹿児島県人は1401名(男1320名、女81名)で、彼らが県内へ送金したり持ち帰った金額は50万円くらいであったという。当時の鹿児島県の教育予算が35万円であったことを考えると非常に多額であった。大正3年(1914年)の桜島大噴火に対し県人会から300ドルが送られ、それに対し県人会へ銀杯、木杯が送られている。さらに大正5年(1916年)には南カリフォルニアから銀行経由で鹿児島に送られた金額は250万円まで増加した。大正7年(1918年)南カリフォルニアの日本人は15,320人で鹿児島県人は569人であった。


違法渡航者と共助
一方、米国においては増加する東洋人の排斥運動が始まる。1920年のノイマン法に始まる米政府の移民政策の変更により、米国への入国は厳しく管理されることになる。しかしこのような移民に対して厳しい姿勢を貫く米政府の思惑とは別に、南薩地域からの渡米は続く。
その方法の一つは農業技術研修生あるいは自動車技術研修生としての合法的入国である。


研修生として
例えば頴娃耳原集落の大原清秀氏は昭和2年(1927年)にロサンゼルスの自動車学校で運転と整備を研修している。病気のため昭和14年(1939年)に帰国したが、2年間の研修を終えると移民官の目を逃れてロサンゼルスの親族を頼り、帰京するまでに5400ドルの預金をした。また、知覧中渡瀬(なかわたせ)集落の中渡瀬国香氏(米国在住)は昭和3年(1928年)に農業研修生として渡米し、研修後の昭和5年(1930年)からロサンゼルス居住の兄二人と農園を始めた。 この兄二人は先にメキシコに渡りその後米国へ入国したが、そのうち一人は密入国であったため逮捕されメキシコに戻されたという。
中渡瀬氏の兄と同様に非合法的な入国の試みも多かった。

密入国
メキシコからのアメリカ入国の厳しさについて「南加鹿児島県人史」に松下勝美元県人会会長談がある。知覧出身の彼は、1916年神戸よりメキシコ領マサトランに着き、船を乗り換えてグアイマス経由でコロラド川を遡り、砂漠を徒歩で3日間歩きアメリカへ入国したという。このほかにも広いアメリカ大陸であるから様々なルートで目的地を目指したが、官憲の目を逃れるための努力は非常なものがあった。
また頴娃耳原集落の福元重志によると、1919年ブラジルの旅券を得てメキシコへ渡航し、渡航費用を一年間働いて返済後、300ドルを持ってバスや徒歩で入国した。 10年後に帰国し結婚して妻と共に再びブラジル旅券でメキシコから米国へ入国を試みた。 当時は排日移民法により密入国が厳しく監視されていたため、キャベツを積んだトラックの荷台に隠れて入国したという。
密入国者達は南薩同郷人会や頴知同志会などの同郷人組織に助けられて移民官の目を逃がれたり、逮捕された後の交渉や費用負担などで援助や保護も受けることができた。ただ彼らの渡航費は自分や家族から調達したというよりは、渡航後稼いだ金を返済に充てるということで親戚・友人から借りたものであった。 そのため目的地到着までに移民官に逮捕され強制送還されると帰路の旅費まで自分持ちとなり、帰国後も長期にわたり返済に苦しめられた。

故郷への還元
米国渡航者が、送金したり持ち帰った金額については既述の例があるが、このほかにも、次のような例が語り継がれている。

  • 知覧町の松山郵便局を昭和5年(1930年)に創設したのはアメリカから帰国したばかり(知覧では「アメリカもどい」という)の頴娃耳原の大原敬一であった。これは滞米中に郵便制度の便利さを実感し、故郷で再現したものである。
  • 同じく知覧の門之浦集落の公民館は昭和3年の建設時に在米者62名から2920円の寄付をもとに建設されたとの碑がある
  • 頴娃・耳原集落では昭和8年のアメリカ渡航者より1町歩の集落林を寄付され「アメリカ山」と呼ばれている。
  • 同じく知覧の門之浦集落の公民館は昭和3年の建設時に在米者62名から2920円の寄付をもとに建設されたとの碑がある。
  • 昭和9,10年の南薩の干ばつは飲み水に事欠くほどであったといわれるが、在米頴知同志会が中心となって集めた義捐金が、知覧門之浦へ423円、頴娃へ938円36銭、耳原へ135円33銭、摺木へ173円50銭送金された。

-出典:古老や経験者からのインタビューによる「鹿児島県南薩地域からの海外出稼ぎ者と海外移民-米国カリフォルニアへの渡航者を中心に-」(鹿児島経済大学社会学部論集 川崎澄雄氏 1985年)

南薩移民秘話
明治・大正期に知覧や頴娃を中心とした南薩地方から米国やブラジルへ「出稼ぎ」渡航された方々について、1980年代に実施された古老からの聞き取りを横糸に米国生まれの帰米2世の人生を縦糸に紡いだ南薩移民秘話をご参照ください。

出典・関係資料:

川崎正蔵は神戸川崎財閥の創設者、川崎造船所創業者、美術蒐集家 (日本で最初の私立美術館「川崎美術館」建設。貴族院議員。
生い立ち
川崎正蔵は1837(天保8)年、薩摩国鹿児島城下大黒町(鹿児島県鹿児島市大黒町)の呉服商人の子として生まれた。17歳(嘉永6年)で当時唯一の西洋文明への窓口であった長崎に出て貿易商の修行を行った。この頃、指宿の濱崎太平治の「山木屋」(既出)へ勤務していたとの研究もある。
27歳(文久3年)のとき大阪に移って海運業を始めたが、このときは、持船が暴風雨で遭難して積荷とともに海没したため失敗した。その後1869(明治2)年に、薩摩藩士が設立した琉球糖を扱う会社に就職する。


実業家として
明治4年(1871年)上京し、大蔵省から委嘱されて琉球糖や琉球航路の調査を行った。翌年には日本国郵便蒸汽船会社の副頭取に就任し、琉球航路を開設、砂糖の内地輸送を成功させた。
この間に自分の運命を左右するような海難事故に何度も遭遇した正蔵は、自らの苦い体験を通して江戸時代の大和型船に比べて船内スペースが広く、速度も速く、安定性のある西洋型船への信頼を深めると同時に、近代的造船業に強い関心を抱くようになる。
1878(明治11)年、時の大蔵大輔(現在の次官)であり同郷の先輩でもあった松方正義などの援助があって、東京・築地南飯田町(現在の中央区築地7丁目)の隅田川沿いの官有地を借りて川崎築地造船所を開設、造船業への第一歩を踏み出した。

  • 明治11年(1878年)築地造船所開業
  • 明治13年(1880年)兵庫川崎造船所を開業
  • 明治19年(1886年)には官営兵庫造船所の払い下げを受けて、明治20年(1887年)川崎造船所(現・川崎重工業)を設立
  • 明治29年(1896年)川崎造船所を株式会社に改組し、自らは顧問に退く
  • 明治31年(1898年)「神戸新聞」を創刊
  • 明治38年(1905年)神戸川崎銀行を開設、監督に就任

美術愛好家として
明治29年(1896年)に第一線を引退してからの川崎正蔵は美術収集家として社会的に有名であった。
正蔵は仕事で他家を訪問するごとに、家屋や庭園、さらに床の間の書画、置物、装飾品にいたるまで、深い注意を払うのを常とし、これがおのずから美術鑑賞眼を養った。
そして、家屋、庭園、美術品は川崎の唯一ともいうべき趣味であり、自分の大志を励ます何よりの刺激剤であった。
川崎の美術収集は、彼の造船業への参入の動機と同じように、明治時代に生きた人間らしいナショナリズムに基づくもので、すなわち明治維新後には日本の伝統的な美術品は欧米の美術愛好者のために輸出されることが多くなり、多くの名品が日本で見られなくなる状態が出現しつつあった。
川崎はこのような伝統的美術品が国外へ流出することを恐れる心情も手伝って、明治11年に築地造船所の経営に着手したころからおりにふれて美術品を収集し始め、生涯にわたって2000余点の名品を買い集めた。
そして明治18年から着工した神戸の布引の豪壮な本邸内に美術館を建てて、自分の収集した名品を陳列し一般に公開した。

参考:川崎重工株式会社「川崎重工の歴史

1983年に来日したレーガン大統領が日米交流の祖としてその名を挙げたのは誰あろう、薩摩藩士であった長澤鼎(ながさわかなえ)である。
彼は13歳の時藩命でイギリスに留学し、後にカリフォルニアに渡り「カリフォルニアのワイン王」「葡萄王」「バロン・ナガサワ」と呼ばれ、カリフォルニア州のワイン産業の礎を築いたことで知られている。

長澤 鼎(本名:磯永彦輔、1852年2月20日(嘉永5年生れ)は薩摩国鹿児島城下上之園通町(現在の鹿児島県鹿児島市上之園町)にて磯永孫四郎とフミの四男として誕生する。
生家は代々天文方で、父親の磯永孫四郎は儒学者であった。当時の薩摩藩は、1863年の薩英戦争を機に海外に通じた人材養成の気運が高まっていた。
薩英戦争でイギリス軍の捕虜となった五代友厚は、翌1864年に、欧州への留学生派遣を強く推す富国強兵策「五代才助上申書」を藩に提出。 薩摩藩洋学校「開成所」教授の石河確太郎も大久保利通に開成所の優秀な学生の派遣を上申した。
この薩摩藩洋学校「開成所」は、薩英戦争後の藩の近代化政策の一環として、洋式軍制拡充の目的で1864年に創設された藩立の洋学養成機関で、語学のほか、砲術、兵法などの軍事学や天文、数学などの自然科学を中心に教えていた。


1864年(元治元年)、薩摩藩の洋学校・開成所に入り、英語を学ぶ。
1865年(慶応元年)、13歳のときに森有礼、吉田清成、五代友厚、鮫島尚信、寺島宗則らと共に薩摩藩第一次英国留学生に選抜される。
選抜された学生たちは五代ら引率者とともに、元治2年(慶応1年、1865年)1月18日に鹿児島城下を出発。
薩摩郡串木野郷羽島村(現在の鹿児島県いちき串木野市羽島)の港から船の都合により2カ月ほどの待機を経た後3月22日、トーマス・グラバーの持ち船であるオースタライエン号で密航出国した。
5月28日(旧暦)にイギリス到着後、一行19名のうち、引率係の新納久脩、寺島宗則、五代友厚と、通訳の関研蔵、年少の長沢鼎を除いた14名が、3か月の語学研修ののち、ロンドン大学のユニバーシティカレッジの法文学部聴講生として入学し、先に入学していた長州藩の留学生2名(井上勝と南貞助)とともに学んだ。
長澤は入学年齢に達していなかったため、スコットランドのアバディーンにあった貿易商トーマス・ブレーク・グラバーの実家に身を寄せ、地元のグラマー・スクールに2年間通う。
しかし藩の財政事情が悪化し多くの薩摩藩英留学生が帰国したが、長澤を含む森ら6名は、ローレンス・オリファントの招きで慶応3年(1867年)に渡米し、ニューヨーク州ブロクトンのキリスト教系新興宗教団体「新生兄弟社(Brotherhood of the New Life)」に入り、信者らと共同生活を送る。このうち何人かは同団体の思想に違和を感じてすぐ離反したが、長澤は森らとともに残り、翌1868年には森らも帰国した。


葡萄農園経営
Kanae@Home 長澤は唯一人教団に残って厳しい労働と信仰生活を送りながら、1870年には9月から3か月ほどコーネル大学にも通った。
1871年にアメリカ永住を宣言。教団の経営のためにワイン醸造をニューヨークのブルックリンでジョン・ハイド博士から学び、葡萄農園を中心とする農業で財政を支えた。
1875年、教団はカリフォルニアのサンタローザにワイナリーを開いた。しかし新生社の異端思想に対し、新聞が反教団運動を行ったために、1890年代前半に教団は事実上解散した。
1900年、長澤はワイナリーを教団から買い取り、品質向上に努力し、彼のファウンテングローブ・ワイナリーをカリフォルニア州10大ワイナリーのひとつにまで育て上げた。カリフォルニア大学デービス校の教授に醸造技術を学ぶなど研究を続け、高級ワインに育て上げた上に、フランスには特約店を設け、苗木を輸入するなど、商才にも長けていた。彼のワインは米国内のワインコンクールで好成績を納め、イギリスに輸出された最初のカリフォルニアワインもナガサワ・ワインである。
生涯独身を貫き、83歳で死ぬとワイナリーは甥の伊地知共喜が継ぐ。しかし莫大な土地財産は排日土地法等のため相続できず他人の手に渡った。(写真:サンタローザ自宅での長澤鼎翁)

ナガサワ・ワイン
Nagasawa Park長澤の存在は一般的にはほとんど知られていなかったが、1983年に来日したレーガン大統領が日米交流の祖として長澤の名を挙げたことにより、広く認知されるようになった。
長澤のワイナリーの一部はParadise Ridgeワイナリーとして承継されていたが2017年の山火事で建物は焼失した。 しかしワイナリーでは、長澤は「ファウンテングローブのワイン製造者、鹿児島の長澤鼎 サムライの人生―カリフォルニア州サンタローザ」と日本語で経歴が紹介されている。
2007年7月には長澤の功績を記念して地元サンタローザ市に「Nagasawa Community Park」が完成した。

カリフォルニア州の鹿児島県人組織である「南加鹿児島県人会」やその後継者による「鹿児島ヘリテージクラブ」およびサンフランシスコ・シリコンバレー地域鹿児島県人会である「北加鹿児島県人会」では、長沢鼎を鹿児島からの移民のパイオニアとして敬愛している。 鹿児島中央駅には薩摩藩英国留学生の銅像が設置されているモニュメント「若き薩摩の群像(1982年制作)」の台座に長澤鼎の若き姿を見ることができる。


wakaki

1865年(慶応元年)4月16日串木野羽島浦沖に英国の蒸気船が停泊し、そこへ向けて薩摩藩士ら19名を乗せた小型船が出帆した。この蒸気船は、薩摩藩英国留学生派遣を当時の島津久光に上申した五代友厚が英国商人グラバーに用立てさせた蒸気船「オースタライエン号」であった。

生麦事件

生麦事件
話は3年前の生麦事件にさかのぼる。 尊皇攘夷運動の高まりの中1862年(文久2年)9月に江戸から京へ向かう途中、神奈川県の生麦村付近を通行中の薩摩藩主の行列を横切った騎馬の英国人たちを殺傷(1名死亡、2名重傷)した「生麦事件」が事の発端である。 英国海軍の測量図 事件後、英国は犯人引渡し要求を行い賠償金請求について幕府および薩摩藩と交渉を重ねた。
しかし薩摩藩は生麦事件での首謀者については引渡しを拒否したため、薩摩藩との交渉がこじれ翌年には英国艦隊が鹿児島湾へ向かい、軍艦からの薩摩藩への無差別な威嚇攻撃が「薩英戦争」の事態を引き起こす。
(この時に後の英国留学生となる松木弘安、五代友厚が捕虜となる。
この時英国艦隊は鹿児島湾の精密な測量を行なっていたことがその航海図から判明している。

薩英戦争後
「薩英戦争」は薩摩藩の思いがけない反撃で英国艦隊は敗退するが、軍艦の威力を知った薩摩藩は、その後生麦事件の賠償費用で同意するとともに軍艦購入の斡旋を英国へ依頼し、事態は沈静化へ向かう。
このような経緯を経て薩摩藩と英国との関係は良好なものに変質していった。
さらに、薩英戦争時イギリス側の捕虜となり、罪人扱いとなった五代友厚は幕吏や攘夷派から逃れるために長崎に潜伏していた。ここでトーマス・グラバーと懇意の間柄になり、世界の情勢を知る事になる。
諸外国の行動に危機感を感じた五代は、1864年6月頃、薩摩藩に対して今後の国づくりに対する上申書を提出する。「これからは世界の大勢に遅れないよう海外で西洋の技術を習得し、国の発展に役立てねばならない。」
この上申書には、新式器機の購入による藩産業の近代化、近代技術・知識獲得のための海外留学生の派遣、外国人技術者の雇用、これらの経費に対する詳細な捻出方法(上海貿易等)という具体的な内容までも含まれていた。


薩摩藩英国留学生 出帆
串木野羽島浦これまでも、富国強兵に努めていた薩摩藩の政策に五代の上申書が引き金となり、イギリス留学の方針が決定されることとなる。
この上申書の翌年1865年(慶応元年)2月13日、視察員4人と、薩摩藩開成所を中心に留学生15人が選ばれ留学渡航の藩命が下された。
鎖国中の最中の洋行は禁止のため、表向きの辞令は「甑島・大島周辺の調査」で、一人ひとりに藩主島津久光から変名を与えられた。
同年4月14日、英国渡航に係る手続きのため長崎に滞在していた五代、松木、堀の3名が羽島に到着し、留学生一行と合流。翌々日には乗船予定の蒸気船「オースタライエン号」が羽島沖に現れる。その後、荷物を積み込み、羽島沖を出帆することになった。


英国到着後ロンドンでの記念写真

後列左から 高見弥一、村橋久成、東郷愛之進、名越時成
前列左から 畠山義成、森有礼、松村淳蔵、中村博愛
後列左から 朝倉盛明、町田申四郎、鮫島尚信、寺島宗則、吉田清成
前列左から 町田清蔵、町田久成、長沢鼎

鹿児島中央駅には彼らの勇気と行動力を讃え薩摩藩英国留学生の銅像が設置されている
「若き薩摩の群像(1982年制作)」
若き薩摩の群像

薩摩藩英国留学生に興味をお持ちの方は、鹿児島県いちき串木野市羽島4930番地「薩摩藩英国留学生記念館」まで


民間有志によって建てられた第八代濱崎太平次像

濱崎太平次(はまさきたへいじ)は、文化11年(1814)3月23日に薩摩国指宿村湊(鹿児島県指宿市)に、海運業を営む七代目浜崎太平次の長男として生まれる。(文久3年(1863)6月15日 50歳で死去)
濱崎太平次は薩摩の豪商として、高田屋嘉兵衛、銭屋五兵衛とともに日本「幕末三大豪商」のひとり。商号はヤマキ(山木屋)、日本の豪商番付で東の最高位(大関)「三井」に対して、西の大関が「湊屋・濱崎太平次」であったといわれる。

濱崎家
家系図によれば濱崎家の先祖は、國分村(現在の鹿児島県霧島市国分)八幡宮の神官であり、今からおよそ 350年前(17世紀中盤)、現在の指宿市十二町(じゅうにちょう)の湊(みなと)に転居し、海運業「山木屋(ヤマキ)」を興した。

指宿温泉開拓と島津家との縁
特に、五代目の太左衛門は海運業をさらに発展させ、また指宿村の長井温泉に島津氏へ別荘を寄贈したことがきっかけとなり、島津家と濵崎家の関係は明治まで続く。さらに太左衛門は斉宣公の命により、長井温泉に湯権現(ゆのごんげん)を造営し、指宿の温泉開拓の拠り所とした。

この頃、時の藩主(斉興、斉彬、久光、忠義)の行き来が頻繁で、濱崎家の屋敷は御殿造りの堂々たるもので、屋敷前の道は御本陣馬場と呼ばれ、死人の棺(ひつぎ)が通ったり、青年などが放歌したりすることが禁じられていたといわれている。
濵崎家は、第六代目から太平次を名乗るが、温泉開拓の功が認められ海運業の手形を受け荷物を運漕する権利を与えられ、海運業を大発展させる礎を築いた。

調所広郷の後援
しかし太平治が八代目として跡を継いだ時、家業は凋落しつつあった。家業立て直しのために、琉球貿易を始めた太平次は、薩摩藩の財政改革を担っていた調所広郷と出会い、藩の御用商人として、薩摩藩の財政立て直しのための密貿易の仕事をするようになった。このことは八代目太平次が成功する発端であった。文政期(1818~1830年)、薩摩藩の借金は 500万両の巨額に達していて、参勤交代さえもままならぬ窮状であr、天保9年(1838年)調所広郷は家老職につくと藩の財政改革に着手した。


太平次の活躍
長ずるにともない、父祖の遺業である造船にも力を注ぎ30余隻の大船を造り(これは生涯を通じての船数で、安政2年(1855年)頃の持船数は8隻であったらしい)、琉球諸島および九州・四国の主たる港や大坂、新潟、北海道などに航海し、さらに支那の南部廈門(アモイ)やジャワなどの遠くにでかけて商品を売買した。

また、太平次は、指宿村二月田(にがつだ)の温泉行館(殿様湯)の建立や新田地区開発にともなう神社の建替、谷山筋整備に伴う今和泉道の引き直しなどに対して度々献金した。文久2年(1862年)薩摩藩がミネヘル銃を購入する際、他の商人先がけて2万両を調達したことは、太平次が豊富な資金力を持っていたことの証左である。

太平次の寄与はそればかりではなく、琉球より洋糸を入手しそれを藩主斉彬公に献上して、それをきっかけに紡績機械をイギリスのブラット商会に注文し、藩営紡績工場の操業開始を支援するなど多方面にわたった。

一方で、調所広郷の内命をうけて密貿易や砂糖運送などで薩摩藩の財政再建に貢献した。
調所広郷の財政改革は、商人の借金を無利子で250年の分割払いにさせ、琉球を通じて清と密貿易を行ない、大島・徳之島などから取れる砂糖を専売制にし、商品作物の開発などを行うことで、天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えが出来る程にまで財政を回復させることができた。(写真:濵﨑太平次鹿児島屋敷と思われる

太平治の遺産

明治維新の5年前、1863年に太平治は大阪で客死しその後濱崎家は断絶したといわれている。

しかし、2016年8月に開催された「海上交通システム研究会第130回例会」の資料(岡本洋氏)によると川崎重工の創業者で(最初の私立美術館創設者でも)あった川崎正蔵翁(1836年生まれ、鹿児島市大黒町出身、右写真)は太平治のもとで約12年間勤務したとの説(三島康 説)があります。

この説によると同翁は14歳(1852年)で太平治の「山木屋」へ就職、16歳(1853年)で山木屋長崎支店に勤務したとされています。さらに貿易に着目して藩庁を説き、西洋型帆船数隻を購入して薩摩国産物を畿内に輸送、巨利を博した、との評価が見られることから、八代目太平治の遺志を継いだと考えることもできそうです。

参考:


QNOUGUI LABORATORY of HUMAN STUDIES
Network Kagoshima

H UMAN  H ISTORY
時代の源流を探る
Look at our heritages from a global perspective

鹿児島のパイオニア達
Pioneers from Kagoshima
濱崎太平次、薩摩藩英国留学生、長澤 鼎、川崎正蔵、有村寛一、内田善一郎...鹿児島のチャレンジ精神に満ちた幾多のパイオニア達

時代の源流を探る
Human History
世界的な視点から身近な歴史を見直す。(1)幕末の北太平洋

ワイン王となった薩摩藩士
The Wine King of California, Kanae Nagasawa Story

1983年レーガン大統領が日米交流の祖としてその名を挙げた長澤鼎物語。

南薩移民秘話
Immigrants From Southern Satsuma

西南の役終結以降、南薩地域から多くの人々が米国へ渡航した...

「夢は咲く」完成。
Immigrant Documentary "DREAM BLOSSOMS" ver.Feb2019
北米難民移民ドキュメンタリー(日本語版)が完成しました。

The Mother EARTH
地球史倶楽部

地質時代に見る生命の歴史
EARTH, 4.6 b. years old..
地球誕生から現生人類(ホモサピエンス)誕生までの地球46億年のドラマに人間の未来のヒントが。...
Fire-ball EARTH cooled down ...

ヒトから人類への道のり
Homo-sapiences and New World
ホモサピエンスの誕生と拡散:約260万年前からの氷河期の影響で北アフリカのジャングルは草原に変化し....

日本の黎明
Creation of JAPAN
ユーラシアプレートの一部であった日本列島は、530万年前ころ大陸から切り離され弧状列島になった....

稲作と日本人
Rice Cultivation...
ユーラシア大陸から流入した稲作....

鹿児島湾の生成と桜島
Creation of Sakurajima volcano ang Kagoshima-Bay.
南は薩摩硫黄島近海から北は加久藤に連なる正断層で形成された「鹿児島地溝帯」が生み出した....


INNOVATION LABORATORY 
イノベーション研究室
Human Innovation Labo.

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Strategies and Innovation
デジタル時代のイノベーション

イノベーションと戦略
Strategies and Innovation
豊かな未来を創造する、現在の戦略論

企業価値と「アーンアウト」
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Value Marketing Labo
ヴァリュー・マーケティング研究室

ヴァリュー・マーケティング
VALUE MARKTING TOP
マーケティング・コミュニケーションの論理

マーケティング経験則
Example of Heuristics
パレートの法則、イノベータ理論、

マーケット分析モデル
マーケティング戦略立案につながる分析モデル例

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Communication TouchPoints

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購入決断の瞬間
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消費者が商品購入を決断する瞬間

日本の広告費
Communication Market Japan

Y2016,Y2017,Y2018,Y2019

LIBRARY
Footages, Europe 2008 and MADmen USA

ブランド研究(1)
Marlboro Brand Story

Marlboroブランドイメージの変遷

P LAZA  KAGO XIMA

プラザかごしま

鹿児島県人情報交流サイト

出身地別かごしま県人会
List of Kenjinkais from Hometown.

平成29年現在県外の出身地別鹿児島県人団体。

かごしまKIZUNAプロジェクトin TOKYO
Kagoshima KIZUNA in Tokyo

かごしまを踊ろう
Dances and Parades, Kagoshima